おしらせ

2018-04-01 19:49:00

子育て終了 金勘定の心が醜い

 26日、月曜日の午後2時、医師や看護師など国家試験の合否の発表の時間。トラクターを降りて携帯を見るとすでに10分以上過ぎている。着信も入っている、さて、お願いと電話をすると「父ちゃん、受かったよ」とはしゃぐ麻実の声が。安堵が全身を包む、「子育て終了」の、のぼりが立った。これで6人全てが社会を泳ぐ。今年は家族の大変革の年、桃太、貝人は新たな職を考えてる、くるみは真澄屋に入る予定、イザナは芝居での海外公演が入り、圭太は40のおっさんに。みんな、それぞれに自由で元気、一番元気なのは、かあちゃんだ、いたって楽しそうに日々をすごしている。ありがたいです、ご先祖さんのお導きのおかげです、と日々線香をあげながら、秋田婆ちゃんの初七日を忘れていた。四十九日まで毎週、秋田の里の習慣「ふだらく」を唱えようと、教本を引っ張り出しておいたのに、まだまだ余裕が足らんのだ、でも、こんなに良い機会を作ってくれた婆ちゃんに感謝するためにも、信心の練習を少しよう。多少日にちがずれてもOK、信心は積み重ねも重要と最近思えてきた。 毎日朝ご飯を食べる前に「今日一日、みんなに光り輝ける時を~」と唱えるんだけど、心の芯からそう思ってない自分が透けて見え、自分の慈悲の至らなさを唱えながら思う。でも唱えておくと、日々の仲間への行動が少しは変化する。 「愛とは何ぞや」と探求し始めた十五の頃より、随分長い年月がたち、六十前にして、やっと手がかりを得たような気がする。 今日は三回目の図書館通い。一〇代からから好きだった、「いわんや悪人もや往生」の親鸞の本を借りてきたよ。

2018-04-01 19:48:00

霊柩車に親指隠すの終わりだね

  秋田はまだ雪景色、まだ50㎝の雪に田畑は埋もれていた。婆ちゃん(マサの母)の弔いに家族4人で駆けつけた。春分の前日の昼に急に亡くなり、看取ることはできなかったが納棺には間に合った。顔にしわは無く、ほおには紅をさしたように赤みがさし、白髪の根元には黒い毛が、まだ生きる気満々、でも身体はしっかり冷たい。90才、寝たきりになって2年、でも食事はベットからおり、背を伸ばして食べていたそうで、数日前からテレビを見なくなった位で、急な死にみんな驚いていた。 

 二日間家族や部落の人たちと話しまくった。秋田弁のシャワーをたっぷりあびた。婆ちゃんが亡くなったら、秋田との縁は薄くなるだろうと覚悟していたが、家族や部落の人たちに親しみが増し、また会いたいなとの気持ちが持てた。婆ちゃんの引き合わせだね、感謝。

 流山では冷たい雨の二日間、秋田は崩れず、真っ白な秋田富士の鳥海山が神々しく、夜は流れ星も見た。御馳走や外食はどれも感慨無し、焼き場で出たおにぎりと姉さんが焚き誤った固いご飯とみそ汁が美味かった。

 49日まで毎週「ふだらく」を部落の人たちと唱える。

 八番 大和の国長谷寺 いくたびも 参る心は長谷寺 山も誓いも 深き谷川  と西国三三ヶ所の寺を巡り、最後は下野(しもつけ)念仏で終わる。約30分。帰りの車中、くるみが運転しながら「爺ちゃんの時、面倒だったけど、今回、これイイと思った」とのこと、雨の常磐高速、午前2時ごろ、南相馬を過ぎたあたり。

2018-04-01 19:46:00

晩年に億万長者、さてどう変わる?

 「畦燃やしを、米作っている人たちでやることになったので来てくれる」。と数日前に付きあいの深いIさんからの依頼、その地区は共同で水路の管理をやれなくなって10年位になる、以前は真夏の最盛期でも炎天下の中、年よりたちが草刈り機やクワを使い半日作業をこなし、昼からはうな丼を食い宴会となった、みんな元気だった。その後、担い手が減り、委託作業として真澄農園で引き受けていたが、水はけが悪く、機械作業の困難な半分の地域は急速に休墾され、うちの仕事もなくなった。 久しぶりの共同作業の復活と思い、何なんだろうと、とても思い深く参加した。 当日小雨と強風の中、今後の予定の都合で強行された、簡単な作業だったら俺一人で参加のつもりだったが、人出はほしいと感じられたので、ユウ夫妻を参加させた、その縁の深い地区人たちには「跡継ぎ」として是非とも紹介しておきたかった。

 以前のあぜ燃やし作業とは違い、主要な幹線水路ワキをきれいにする事だった、これは部落の共同作業ではなく、土地改良区の役員の仕事だが、その地区の親方たちも、明日をもしれぬ年寄りが半数、後継者もいない。でも休墾田地区に流通センターが作られることが決まり、各家に1年以内に数千万、数億が入金される。今までもそれなりに土地関係で裕福なのに更なる大金が死に際に尾転がり込む、迷うだろうなぁー困るだろうなぁー、みんな昔より元気がない、みんなの状況判断を聞くと、半分の残った田んぼはこれから30年以上は開発は無いだろうとのこと。面倒な事はあいつらにやらせようかと呼ばれたのだろう。よござんすよ、OKです。

2018-03-17 20:29:00

  よかったねと、三省が迎えてくれた

 数年ぶりに「今日はお休み」と決めた先週の土曜日、午前中にはフナちゃんたちの水槽の大掃除、よどんだ水の中ではメダカが見えず、溶けちゃったのかしらと心配だったが、下の方でみんな生きていた。中の小石や水槽を洗い、魚たちを入れると元気に泳ぎだした。みんなきれい、朝の餌やりの時に見とれてしまう。ドジョウも大きくなったな。

 ドブロクを少し飲んだらコタツで昼寝、直売所の野菜の回収後、10年以上行かなかった図書館に、駐車場に入る時からなんかワクワク、カードを再発行してもらい、農業書を数冊選んだ時に閉館の音楽が、慌てて小説の棚に行ったが、時間的に無理だ、エッセイコーナーがあり軽く見渡すと、山尾三省の「ここで暮らす楽しみ」ドーンと光っていた。待ってくれていたかのごとく目に飛び込んできた。三省はもう他界したが、ヒッピー八百屋の大先輩であり、アミニズム哲学の巨匠でもある。屋久島に移り住み、まず多くの書籍を世に出した。一奏白子山という谷筋に暮し、そこには20世帯ほどの仲間たちが暮らしている。その住人の一人の女性はマサの若い頃からの友達であり先日もタンカンを送ってくれたところだ、まずは幸先いい出会い、あまりにも営農に籠りすぎていた、ここ数年、「あと少し、あと少し」と焦りすぎていた。「ゆっくりやらなきゃ」と呪文のようにいつもぶつぶつ考えながら「でも仕方なかぁ」と時は流れていた。今度の「肺炎」は誠に最高のプレゼントだった。

 昨日も2回目のお休み、確定申告の作業の合間に、たっぷり昼寝と読書、さて次の休みは考えるだけでワクワク。

2018-02-18 20:49:00

 

   肺炎は疲れるよ ほんと

 風邪ではなかった、「肺炎」だった。4日間9,5℃以上になり、ほとんど寝れなかったので、病院病院が東葛のERを紹介され、すぐにいろんな検査をし抗生剤等の点滴を毎日続け、後はひたすら横になっていた、ただ「糀」や鶏の面倒、直売所などの少しの仕事はある、一寸歩いただけでも、フラフラし熱もあがった。昨日からようやく高熱は収まったが、まだちらっと、微熱が出る、薬は1週間分出されたので、たぶんしつこいんだろう、でも今日は久々に外で働いてみた。一転の曇りない青空、風もなく暖かい、一寸動いても息が上がらない、家の薪の在庫もつきたので、太い木の玉切り作業をすることにした。何本は切り、家に運び、薪割りをし、数日分の用意はできた。コタツに入ると、すうっつと眠れる、やはり微熱が上がる。やはり無理はできないな、少しずつ無理ない程度に働いていくべ。

 点滴に通うと、まず血圧を測るが、毎日低くなり、3日目は100以下だった、脇の肉が少なくなり、体温計をうまくはさめなくなった、血液検査でも筋肉を溶かしている数値が上がっているのを先生は心配していた。確実に体力の低下が見て取れ、食べなきゃヤバいと初めて思った。マサも肉を食べなさいと料理してくれる、何とか通常の7割位は食べられるようになった。もう少しだ。1週間、全てを任せていた収穫作業、明日からは少しづつ参加するべ、だいぶ野菜たちの様子も変わっただろう。ともかくぶり返したら元も子もない、10年前とは違う、もう老人だということをじかくしなくてはね。情けねえが、仕方中。

 

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